今回の課題は⤴︎ ⤴︎⤴︎こちらの絵本。
ひとの身体の大事なとこ。ブライベートパーツについて、ちゃんと考えよう、ちゃんと子どもに教えようという趣旨の絵本である。

さて。
『自分のからだを知ることは自分を守る力を育む』とは、絵本の主題。
特に、パンツの中は『自分だけがみたり触ったり出来る大事なところ』。

パンツの中外を自分以外に見る者がいるならば、それは『非常に親密な関係の人』もしくは『業務上、そこに関わる役目の人』である。
むやみに見せたり、見せることの強要は決してしてはならない…のだが。

ツンパのマーチ~パンツを巡る今昔~
2021/10/19 20:31

子どもの頃、通っていたサッカースクール。
低学年の頃、女子もいなかったから、男の子と同じクラスだった。
今みたいにビブス等なかった時代、
ゲーム形式の練習は、裸ん坊チームとシャツチームにわかれて行うのが当たり前。
もちろん、女の子だからという配慮は一切なく
(1年生やそこらで、おっぱいの意識があるはずもない)上半身は脱いで裸ん坊チームになることは普通だった。
4年生になった頃、
裸ん坊チームに組み分けされた5年生か6年生女子がシャツを脱いだら、口をとがらせたレベルの小さい膨らみがあって、小学生ながらにコレはまずいんじゃない?と思った記憶がある。
(昭和40年代の話、そんなことは誰も気にしていなかったのだが。)
今の時代なら、もはや間違いなく『犯罪』だろう。

女子だからという話のみならず、
昭和50年代の某有名アニメでは、「やらかした若者」がパンツ一丁で艦内を走ってくるという懲罰(?)を受けるシーンがあった。
(タイトル ツンパのマーチ を聴いてみたい方は
https://youtu.be/nB7e2LN1PYk 15:04 辺りから )

懲罰扱いだから、やはりパンツ一丁は男子にとっても『恥』に当たることなのだろう。(このシーン、令和版にも入るのか?ちょっと楽しみ。)

ところが大学に入ってみたら
パンツ一丁で雄叫びをあげる伝統的かつ独特の応援(?)スタイル『エッサッサ』との出会いで、パンツ一丁の価値観が覆される。

☆エッサッサとは☆
大正10年代、東京農大には『大根踊り』が、商船大学には『錨をあげて』が独自の応援スタイルとして名を馳せており、体操学校でも、そのような独特の応援スタイルを考案しようという気運が高まっていた。モチーフとされたのは当時アメリカから持ち込まれていた『ピストン・ロッジ・アームモーション走法』。この腕の振りに静と動、強と弱、速と遅の要素を取り入れ、掛け声を『エッサッサ』に。日体人の精神的な土壌といえる『演じて見せるエッサッサの世界』の誕生である。
時代は移り、エッサッサも時の寮生たちによって少しずつアレンジされ『離合集散』の美を表現しより勇壮なものへと仕上げられた。月明かりに獅子が月に向かって咆哮する様子(さま)を表現したもの、との説明が加えられるに及んで、この静の強さを強調したスタイルは完成したという。

ことある事に(合宿の締め、卒業式、各期の締めの会等)人目をはばからす、パンツ一丁となり、咆哮をあげる姿は、恥を突き抜けた向こう側にある対局。むしろ誇らしい憧れる姿として目に映っていた。

数十年の時を経て
自らが『業務上、そこに関わる役目の人』となると、パンツ及びその中身すら「単なるひとのからだの一部分」に過ぎないという認識に行き着いた。
(平たくいえば、トイレ介助やオムツ交換業務)
もはや、介助する側もされる側も「恥ずかしい」という認識は空の方へすっ飛んで、淡々と日常生活の一部分として遂行されるのみ。
我が子のトイレトレーニングをしてた時分の感覚と何ら変わりがない。(赤の他人のじー様ばー様の股間と向き合ってるにもかかわらず)

しかし
パーソナルクライアントの一言で現実に引き戻された。
「いくらおばちゃんでもいきなりパンツ下げられるのはイヤよ!」彼女はぎっくり腰の鍼治療で
いきなりパンツを下げられたそうで、二度とそこには行かないと心に誓ったそうな。

そうだよな、それが普通?正常?マトモな反応だよなぁ。危ない危ない。

恥とか、恥ずかしい感覚をどこかに置き忘れるところだった。気をつけよう。
猛省することしきりである

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ホントはここまで書きたかった。
が文字数制限800字には収まらなかったので

ボツ!!!

となった次第である。