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今月の課題図書。

私の旧姓は「秦」である。

秦の歴史を辿ると、有名なのは聖徳太子の側近『秦河勝』、
もっと前は7世紀【隋書】に登場する「秦王国」(現在の北九州北東部一帯)、
そしてそのはるか前は「秦の始皇帝」にまでたどり着く。

歴史の授業などでは「秦始皇帝の子孫の弓月の君が機織りや養蚕の工人立ち絵大勢連れて日本に帰化し、その機織りの技術を伝えた工人の子孫が秦姓を名乗ったのが始まりだ」と習うと聞く。

 

祖父は広島の三島から、家業を継ぐのがいやで、こちらに出てきたと言っていた。
その家業とは、神主…..。祖父より前の皆様は神社に奉職していたそうだ。

その「秦家」の歴史を紐解く唯一の書物が家にある。
全国の秦家の皆様に寄付を募って、歴史書として編纂されたものである。


この中に、祖父、父、母の名前が出てくる。
(父の没後、ずいぶん経ってからこの本の出版企画が持ち込まれ、母が寄付したのだから,載っていて不思議ではないのだが)
今回、リクエストをもらって、初めてこの本を紐解いてみた結果である。

私はもう嫁に出た身であり「秦」を継ぐものではないので、この本が私の手元にあるのもどうかと思って、「秦」の姓を継ぐであろう従弟に譲ろうとしていた矢先のことであった。

 

二十七代 秦重忠(曾祖父) 二十八代 秦重德(祖父)二十九代秦重誠(父)(没、妻千鶴子(母))が直近の先祖に当たる。
そして、「九代重則より二十七代重忠まで、十九代・約四百年にわたり、豊田郡田野浦村の八幡神社神官を務めている。」という記述。つまり、連綿と続いてきた神職の座を祖父はほっぽり出して上京してきた、というわけた。祖父は、内務省にいて天皇陛下の行幸の際には白馬に跨り、天皇陛下の「弾除け」として護衛任務にあたっていたという。内務省を辞した後は、弁護士として法廷に立っていた。(民間会社の社長も務めていたようだ)自分はまだ幼いころであり、祖父は「判例をしらべているんだよ」と何やら分厚い書物をめくっていた記憶しかない。

そんな祖父だったが、自身の3人息子たちには「重」の字をきちんとつけていた。(重誠、重孝、重義という。)「うちは代々男の子には『重』の字をつけるんです。」と祖母が言っていた。その時は、フーンとしか思わなかったし、叔父の2番目の息子に『重』が付かない名前をつけた時はずいぶんもめたようだったが、別にもういいんじゃないの?と思っていた。

が、改めて歴史書を見ると、『重』をつけないのは、相当の重罪(!)であることが明白だ。
嫁姑の軋轢もあったのだろう。が、いまさら…な話である。
ちなみに私がこの本をを譲ろうとしている従弟は『重』の字を持つ名前である。

せっかくなら、この先も絶家にならずに続いていってほしいと願う。

=============エッセイここまで。=======================================

なんとか、カタチにはなりました。

母の逝去から、相続で必要になった「生まれてから死ぬまでの戸籍取得の話」を書こうと思っていたのですが

締め切り直前に「秦の先祖」について書いてほしいとリクエストがあり…

梱包しかけていた歴史書を紐解いてみての作品です。

ぶっちゃけ、オチもないし、盛り上がりもないぞ…と猛省することしきり。
歴史的な中身を伝えるには、800字では到底足りないということですが、致し方なし。

よろしくお願いします。

後日談

ふみサロで発表。1日で書いたということを加味して、城村特別賞✨🏆✨を頂きました❣️

 

高貴な出なのがバレてしまいましたね💕︎ほほほ