なぜヒトだけが老いるのか (講談社現代新書) 新書 – 2023/6/22

今回の課題図書はこちら。

この本、2023.8月に買って読んでた。
課題になったと知って、焦って探したがどこにも見つからない。

つまり、読んで…早々にブックオフ行きになった(覚えてない)らしい。

きっかけはラジオだった。土曜日の朝、仕事に行く途中につけるとやってる番組で著者が来てその人の面白い活動を紹介する、という中で紹介されていた。著者が話をすると面白い。で、買ってみよう…と思って即ポチした結果、早々にブックオフ。ということは、「オモシロクナカッタ」「ココロニノコラナカッタ」んだろう。

読んだよ!という結果しか記憶がない。

そこで、「老後⇒死」のあと始末や残された側の気持ちのほうに興味がわいたので、そちらの話をすることにする。

エッセイここから。

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生物的に人間だけが獲得した「長い老後」。

他の生物は、他の世話になりながらも長く生き永らえることはない。遺伝子的にどうだとかこうだとかはともかく、世界レベルで見ても日本人は長寿であるとされている。しかし、それって、「医療の発達・栄養の向上・衛生環境の改善」によるもので、第二次世界大戦後の話である。それまでは日本だって「人生五十年~」「平均寿命50歳弱(昭和22年)」だったのだ。

いずれにしても、人間の死亡率は100%である。(他の生物も、だが)

心配無用。寿命の長短、その最期の迎え方に関わらず全員亡くなるのだ。

亡くなった後どこに行くのかどうなるのかは、ひとまず丹波哲郎氏にお任せするとして、本当に問題(?)なのは残されたほうなのだ。

 

亡くなった方はこの世でのことはすべて置いていく。遺された者たちに丸投げ、あとはよろしく~ってなもんだ。心配でも放置でも、もはや何も直接手を下せない。

しかし「よろしく」された方は、たまったもんじゃない。物理的にも経済的にも心理的にも「過負荷状態」に陥ることになる。余命宣告⇒準備万端整えていたとしても、予測不能な事態は起こる。故人を叩き起こし「●●はどうなってんの!□■はどこ!!」と襟首つかみたくなることは「あるある」なのではないか。

そして、そのお祭り騒ぎ(悲しんでる場合じゃない)が収まるころに、後悔や寂寥感にさいなまれるのである。

秋に義母、年明けすぐに義父、そして夏に母と1年経たないうちに3回の葬儀の年は、不祝儀のプロになれると思うくらい段取りに追われ、「忙しい」>「悲しい」。一息付いた時には周りの皆は前に進み、故人やその事柄は「過ぎ去った昔」として忘却の彼方。もはや抱え込んだ理不尽ともいえる悲しみや寂寥感を分かち合える相手がいないのだ。

この取り残され感を和らげてくれたのが、喪失エッセイ本だった。

ぜひエンディングノートとともに保管しておこうと思う。

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小池真理子氏の「月夜の森の梟」戦友ともいうべき夫である藤田宣永氏との作家夫婦の病と死に向き合い過ごした日々。残された著者の苦しみながらの生き方を綴った喪失エッセイ。https://amzn.to/3K1MFDZ
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次が前田隆弘氏の「死なれちゃったあとで」。著者が実際に経験した死別についてライトな語り口で綴った作品。https://amzn.to/3QIo6PR 2023.8購入

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作品の意図

シニアフィットネスの専門家として、様々な老化の過程を見せてもらってきた。
その話を書こうかと思ったが、近々に読み終えた喪失エッセイとの関わりのほうがサラッとつながったので
今回はそちらの話にした。

遺伝子が…とか、生物学的に…とか。
嫌いではないはずの分野、話だったのだが、記憶にございません状態なのは
オモシロクナカッタ、ココロニヒビカナカッタ、なんだろうな。
私の本棚(保存殿堂入り)にノミネートされるまでに至らなかったのは残念だが
それもまた縁…ということで。