火中の栗、かく語りし
2021/6/24 21:44
起こったことを客観的に描くには、渦中過ぎる。まだ進行形のど真ん中。それを実況するには差し障りだらけの上、この先どうなって行くのかも想像できかねる。
製作過程はリアルな出来事でありながら、会わずに文字だけ、声だけ、映像だけでやり取りのバーチャルリアリティ。私は割と嫌ではなかった。
20年前、初めて「iモード」を手にし、文字だけで仲間関係を構築したメーリングリスト。あの頃とよく似た感覚、既視感が、事ある毎にヒートアップし、星一徹の如くちゃぶ台返しをしたくなる衝動をギリギリ抑えこんでくれた。
なぜ人は群れると、もめるのか。
よかれと思い発する言葉、行動が上手く伝わらず、時として傷つけ合い血まみれになる。これがヤマアラシのジレンマというものか。
今どきの言葉で言うならソーシャルディスタンを保って踏み込まない、踏み入らせない、ではだめなのか。
私を見て。話を聞いて。私を褒めて。私を労わって。
悲鳴にも似た叫びが感情が、文字間から行間から浮かび上がる。
作品というオブラートなしでのやり取りには
「ふみサロとしてのルール」は適応されず、何度も何度も「今のなーし!!」リセットが繰り返され。もはや火炎旋風の如くの火中である。
なんとかかんとか、見聞きしたものを
「私」というフィルターを通し、「私の感覚」という包装紙でラップして、群像劇として仕立て直してみるものの、現実は小説より奇なり。
白旗を上げ撤退、敗走を余儀なくされる。
美しげなタイトルとは裏腹に、
蝶よ花よの美談でもなければ、青春群像劇でもない。いい歳のオッサンオバサン達が、七転八倒しながら口角泡を飛ばし、ヨレヨレボロボロになりながら、紡ぎ上げた一冊。それがこの本。
まだ、美しい思い出にもなっていないこの物語。はたしてこの先、どのような句読点を打つことになるのか、火中の栗として観察を続けたいと思う。
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